2013/06/02

和歌山来訪日記02:名草戸畔お礼詣りの旅〜01

 時の経つのは早いもので、5月5日に行われた講演会、「なかひら まい・小野田寛郎 名草戸畔を語る」から、ひと月近くが過ぎた。当時は、お世話になった友人たちと交流するためしばらく和歌山に延泊したので、東京に戻ったのは8日だった。遅くなったが、延泊のレポートを書きたいと思う。

 5日の講演会は昼間に終了した。夜は、友人たちと食事会の予定だった。会場の関係上、紀ノ川をのぼり内陸の方へ移動した。夜まで少し時間が空いたので、「根来寺」に寄ることになった。「丹生都比売神社」や高野山へ行ったことはあるのだけど、「根来寺」は初めてだった。夕方なのでお寺は閉まっていたけど、ダイナミックな境内に驚く。中世以降の寺であるが、たしか古墳や奈良時代以降ぐらいの遺跡の上に建っているはず。
 鐘の後ろに、鬱蒼とした黒い森があった。すっと飲み込まれてしまいそうな森だ。「夜になったら怖いよね」誰ともなくそんな声が上がった。今思えばこの森が、名草のお礼詣りの旅の「入り口」だったのかもしれない。


 翌日、6日。気持ちのよい五月晴れの朝。わたしは友人の車の同乗し、小野田の「宇賀部神社」に向かった。和歌山は2年ぶりだった。さすが、地元の友人だけに、車はまったく迷わず「宇賀部神社」に到着。懐かしい、のどかな田んぼと緑の風景が目の前に広がった。6年前、初めて神社に訪れた時も5月だった。当時と同じように、鳥居のところに鮮やかなピンクのツツジの花が咲き誇っている。変わらずに在り続ける神社と緑と青い空を見ると嬉しくなった。
 わたしは講演会が無事に終了したことに感謝して、お礼のお詣りをした。友人たちにも、講演会に際して大変お世話になった。みなも、それぞれの思いを込めてお礼詣りをしたようだ。おこべさんでは、取材中からお世話になっている宮司様にもご挨拶ができた。


 つづいて車は、おはらさんこと「杉尾神社」へ向かった。「杉尾神社」は、高倉山の中腹にあるため、長い石段を上る。少しかしいだ古い灯籠も以前と変わらず佇んでいる。ようやっと上って拝殿にたどり着く。神社は、拝殿の奥に壁がなく、山肌が見える作りになっている。拝殿のまわりに青々繁る高倉山の緑もなつかしい。



 続いて「千種神社」へ。杉尾から千種への道は、そうとう分かりにくい。何度も迷った記憶がある。ところが車3台は、ほとんど迷わずに神社へ至る細い道に入っていく。運転している友人のYさんが、玄人はだしの古代史研究家であるゆえであろうが、あまりにスムーズなので驚いた。観音様を抱きかかえて成長した楠のご神木も、前と変わらずに立っていた。

 驚くことに、午前中に3つの神社をすべて回ってしまった。Hさんは、「近くに住んでいるのに、3つの神社を一度にお詣りしたことはないのよ」と言っていた。たしかに、近くにあると思うと、なかなか行かないものだ。友人たちにとってもよい機会だったようで、ホッとした。
 つづいて車は安原の道端で停止。ここからは道が細すぎて歩いてゆかねばならない。皆でぞろぞろ田んぼの間の細い道を往く。遠くに名草山が見える。


 たどり着いたのは竹藪。そこには、小さな池と祠が鎮座していた。地元の方でも分かりにくい場所にあり、Yさんしかたどり着けないという噂の通称「おそわさん」である。池と山の精霊を祀る祠であろう。諏訪を思わせる「おそわさん」という名称から、出雲族との関連を想像させるが、精霊はそれ以前から存在していたように感じられた。目に見えない精霊たちの神聖な場所であった。


 続いて一行は、Yさんのお計らいで、「安原八幡神社」にて宮司様による正式参拝をさせていただいた。土地の人でない、わたしのような者が、このような機会に巡り合えるとは、ありがたいことだった。参拝の後は、神社で昼食のお弁当をいただいた。中世より3月や5月の節供に行われてきた直会そのものであった。貴重な体験をさせていただき、この場をかりて感謝申し上げます。
 名草戸畔の本には書いていないが、名草地方には「八幡神社」がたくさんある。理由は、次の通り。戸畔(女性首長)の時代を過ぎたあと、紀氏が台頭してくる。「八幡神社」の創建にはその紀氏が関連していると思われる。京都「石清水八幡宮」の宮司家が紀氏であることは有名だ。八幡宮関係の紀氏は「日前神宮」「国懸神宮」の「紀國造」ではなく、中央でも活躍した武内宿禰を祖とする「紀朝臣」の流れだ。つまり、名草の末裔である。

 続いて、Yさんのご案内で、武内宿禰ゆかりの地に赴いた。宿禰が産湯に浸かったという伝説の井戸や神社だ。名草戸畔より時代が下るという理由で、知っていたのに一度も言ったことがなかった宿禰ゆかりの地を拝見できて嬉しかった。井戸の小屋を外から眺めているとYさんは小屋の中に入り、おもむろに井戸のフタを開けた。氏子さんの特権である。中を覗きこむと水が見える。本当に井戸だ。いつからこんな伝説が生まれたのだろう、宿禰は本当にここに来たのだろうか。井戸には、不思議なリアリティがあった。とくに、武内宿禰が名草の末裔であるとわかっていると、余計にリアルに感じられた。


 一行は、晴天に恵まれ、まだ日が高かったので、吉原の「中言神社」に出かけた。中言の総本山である。今回のお礼詣りに、3つの神社だけでなく、吉原まで回れるとは、嬉しい限りだ。なつかしい境内に参拝し、子供たちが作った安原の伝説の絵本を眺めて、しばし愉しい時間を過ごす。



 Yさんが、せっかくだから世話人のMさんを捕まえようと、何度か電話をしていたが繋がらなかった。ところが、しばらく神社で遊んでいると、道の向こうから、自転車を引いたMさんがやって来くるではないか。一同、大喜び。Mさんは、嬉しそうに誤字を修正して新しく刷りなおした神社資料を持ってきてくれた。神社には、昨年の夏から新しい看板が立っていた。そこには、神社資料にある、「中言神社」が名草戸畔と関係するであろう、という記述が記載されていた。戦時中であれば考えられないことだ。
 名草戸畔伝承は、もう世にはばかるものではなくなった。昔のように、愛される物語に戻ったのだと思う。


 日が暮れる前に、まだ少しだけ時間があった。お願いして、最後に「浜の宮神社」に連れて行ってもらった。「浜の宮神社」の奥宮は、岩肌を背後に鎮座する小さな祠である。岩そのものがご神体だ。ご祭神は「初龍姫大神」。人ではなく自然の精霊だと思う。とても神聖な感じのする場所で、わたしはここがとても好きなのだ。


 神社のそばには、美しい和歌浦の海が広がっていた。何千年も前から、この海と空と太陽と風は、変わらずに存在しているのだ。


 あまりにも密度の濃い6日のお礼詣りはこれにて終了。

2013年6月2日
なかひら まい 拝